清原淳平のプロフィール
(平成29年1月25日作)
清原会長

清原淳平 東京都出身。1932年生まれ。早稲田大学大学院修士課程・世界経済専攻卒・商学修士。現在、岸信介元総理創立にかかる三団体、すなわち「自主憲法制定国民会議(=新しい憲法をつくる国民会議)」会長。「公益財団法人 協和協会」代表理事兼専務理事。「政治団体 時代を刷新する会」専務理事。
1、学歴

 早稲田大学卒業(1956年)し、続いて同大学院商学研究科修士課程・世界経済専攻へ進学。1958年修士課程世界経済専攻修了・商学修士。引き続き同大学院商学研究科博士課程・世界経済専攻へ進学。1959年頃、西武グループ総帥の堤康次郎元衆議院議長の総帥秘書室へ勤務したため、1961年3月、早稲田大学大学院商学研究科博士課程・世界経済専攻に中退届けをする。(※ その詳細、卒業証明書・学業成績証明書などについては、「問い合わせ項」へ)

2、西武在職時代

 早稲田大学大学院に入ってから、亡き父親が生前、事業の関係で、五坪茂雄衆議院議員(石川県選出)、西武の創立者・堤康次郎衆議院議員(元衆議院議長)と面識・交流があり、そして、衆議院議員を引退した五坪茂雄氏が、堤康次郎総帥のもと西武グループの顧問に入っていたので、五坪茂雄氏へ何かと相談に行っていたこともあり、五坪顧問から西武の総帥秘書とならないか、と勧められた。清原も、大学院で学んだ経済学を実際に活かせるのではないかと考えて、博士課程在籍のまま、当時、都内広尾にあった堤康次郎邸に付属する会長秘書室に勤務した、という。
 しかし、秘書というのは、始め期待した学問を活かせるようなものではなく、例えば、3日に一夜は泊まり込み、宿直の日でなくても、最終電車で帰って、始発電車で出勤するという生活で、毎日4時間とは眠れなかったと聞く。
 ただし、西武では、決して悪いことばかりではなく、堤康次郎総帥(内部では「大将」と呼ぶ習わしであった)が、日本一の土地持ちになった方式を学ぶこともできたし、特に日本最高の人物にお目にかかる機会を得た。それは、堤康次郎元衆議院議長は、吉田茂元総理と当時現職の岸信介総理とを大層尊敬していて、安保騒動が激しくなるころから、月に1回程度、西武経営の「箱根湯の花ホテル」(現「箱根湯の花プリンスホテル」)にて、堤康次郎総帥が、岸信介総理と吉田茂元総理をお招きして、三者による「清談会」を催していた。清原は、堤康次郎総帥の指名で随伴して、貴重な体験もしたという。(その詳細は、『世界日報』平成22年1月25日~26日の掲載記事。平成28年7月26日刊『吉田茂と岸信介』NHKスペシャル取材班安井浩一郎ディレクター著の124~6頁。さらには、清原淳平著『岸信介元総理の志 憲法改正』11頁による)。

3、西武退職後の
苦難と執筆時代

 前述したように、西武在職時代は、毎日、4時間とは眠れず、土日もない生活であったため、1960年秋ごろから微熱が続くので、医師に診てもらったところ、肋膜炎と診断された。当時は、結核は死病と言われ、一族・友人の中でも、結核で亡くなった人が多く、清原も死を覚悟して、西武に退職届を出したという。堤康次郎総帥は退職を認めてくれたが、結核のことは伏せておくように言われた。しかし、その後、会長室の経理執事長ともいうべき川島さんから、勤務年数からすれば破格の退職金を渡された、という。
 それからは、医師から静養を言い渡され、実家にて静養を続けた。幸い昔からの主治医は昭和天皇の御信任も厚い名医の方であったことと、その当時、アメリカで結核の特効薬として開発された抗生物質のはしりであるストレプトマイシンを、医師が取り寄せてくれ、その投与のお陰で、なんとか死なないで結核は治まった。しかし、その後、アメリカで発表されたが、副作用として内耳障害が出て、耳が遠くなり(いわゆるストマイつんぼ)、以来、ずっと難聴で苦労しているという。また、清原は、気管支炎を患い、気管支拡張症になったため肺炎を起こしやすくなっているので、西武での体験に懲りて、以後、秘書役はやっていない、という。  なお、結核を凌駕してから、結婚もして子どももできたが、体調の心配もあった。次に何をするか迷ったが、西武にいた当時に、西武と東急による箱根山戦争の真っ最中で、法律の知識が必要であることを痛感したので、まずは法律の知識を学ぶため、図書館通いをし、司法試験の勉強仲間の中にも入って勉強をした。しかし、数年後、裁判官・検察官・弁護士はいずれも貴い仕事ではあるが、争いごとに携わるのは自分の性格に合わないと思うようになった。
 そして、心の中に沸き起こってきたのが、幼少より連れ歩いて指導してくれた父親が大学3年の時に亡くなって以来の「人間はなぜ死ぬのか」「限られた人生を如何に活きるべきか」という哲学的な疑問が膨らんできたので、図書館でまず西洋哲学について古代ギリシャのソクラテスやアリストテレス時代から、中世~近世~現代までの系譜を辿る勉強に集中した。
 数年後、その哲学研究も結論を得たので、出版社に相談したところ、哲学の本は売れませんよ、というので、それでは、哲学を具現化するのは教育問題だと考え、教育書を書き出した。そして、『この教育をどうする』との題名をつけて、教育書で知られる第一法規出版社へ持ち込んだところ、幸い出版してくれるという。
 それ以来、著書は10冊以上、論述も多数あるが、それらはみな、「清原淳平」なるペンネームを 用いている。その理由を記しておくと、清原は、上述のような経緯で、西武グループの創立会長であ り、衆議院議員(元議長)でもあった堤康次郎氏の総帥(議員と事業双方)秘書室に入り、たしかに いろいろと勉強になった反面、土日も休まず、毎夜4時間とは眠れない生活から、肋膜炎を発症し、 西武を辞め、その後、4~5年にわたって闘病生活を強いられて、人生の不遇を痛感したことから、 自然と易学とか姓名判断とか手相に凝っていた時代であった。
 そして、そうした易学や姓名判断の専門家から、「あなたは、本名だと、不遇が多く、病弱で短命 ですよ。寿命が短い」として、改名を勧められたという経過から、社会生活においては、すべてこの 易学や姓名判断から編み出した「清原淳平」(清原の姓は、父方の先祖に関係する)ペンネームを用 いる。そのお陰で、肺炎を8回も発症しながら、今日まで、社会活動していることに感謝している。
 清原は、その後も苦難の連続ではあるが、まずまずの健康で今日まで活動できるのは、この「清原淳平」なるペンネームのお陰であるとして、このペンネームで活動を続けている、という。  この清原淳平著『この教育をどうする』(昭和48年12月20日初版発行)は、かなり反響があり、教育に熱心な国会議員(「素心会」会長もされていた自民党の千葉三郎元衆議院議員・労働大臣、また民社党の竹本孫一衆議院議員)からも要請があり、その招きで、国会の議員会館会議室にて、その著書内容の解説もした、という。また、第一法規出版の要請で、その発行にかかる『学校経営』と題する月刊誌にも、5ヵ月にわたり、教育評論家の名で、評論記事を掲載してくれ、と言われ、執筆している。
 また、そうしたことが切っ掛けとなり、清原自身、「教育指導哲理研究所」の所長となり、なお、外部から要請を受けて、日本長老会事務局長、日本百歳会常務理事などを務めていた。
 そうしたことから、当初、哲学に関する本は売れないと出版を断っていた第一法規出版が、最初にまとめた清原の哲学研究書を出版してくれるという。そこで、題名を『相対的価値観養成教育への勧め』としたいと言ったところ、編集長が、そうした硬い題名では売れませんよ、というので任せたところ、『人づくり世直しを考える』(昭和51年10月15日発行)という題名で出版してくれた。
 しかも、この『人づくり世直しを考える』へは、先の『この教育をどうする』について、賛同・意見を表する手紙を下さった有名人が、表紙・裏表紙の帯に10数人も推薦人として名を連ねて下さり、大手出版社の力が大きいことを知った、と清原はいう。特に、前著『この教育をどうする』に対して、お手紙をいただいた、桜田武・日経連会長、小島徹三・自民党衆議院議員・元法務大臣、竹本孫一・民社党衆議院議員、岡村二一・(財)新聞通信調査会理事長、岩田喜雄・(財)アジア会館会長は、「推薦のことば」を書いて下さった。その中でも、岡村二一理事長は「これは、私が多年待ち望んでいた救世の快著である。」と書いて下さり、感動したという。

4、岸信介元総理創立の4団体の執行責任者に任命される

 こうして、二年ほど経ったころ、岸信介内閣で郵政大臣を務めた植竹春彦元参議院議員と前掲の小島徹三元法務大臣から、「岸信介元総理が、その創設にかかる『財団法人 協和協会』を活動するにあたり、その実務執行者を捜しておられるので、君を推薦したい」とのお話しがあり、植竹元郵政大臣に伴われ、昭和53年11月に、日本石油(株)本館3階の「岸信介事務所」に参上して、岸信介元総理にお目にかかった。
 御挨拶を申し上げたあと、清原が「私は、安保騒動の前後、西武の創立者・堤康次郎元衆議院議長の総帥秘書室におり、堤先生のお供で陳情のため総理官邸にも参りましたし、また、「箱根湯の花ホテル」での、岸総理、吉田元総理、堤元衆議院議長の三者による「清談会」の際にも、主人役の堤元議長に随行しておりました。」と申し上げると、岸信介元総理は、ニッコリされ、「その折は、苦労をかけたね」と労って下さった。
 そして、岸先生は、「(財)協和協会は、昭和49年に創ったものだが、現職議員であるため、活動を控えてきた。しかし、来年には衆議院議員を引退するので、協和協会を活動させたい。そのため、実務執行者を捜していた。丁度よい。私が後ろ楯になるから、君、やってくれ」との御趣旨。(清原は最初、御辞退したが、結局、お引き受けするにいたる経過については、清原淳平著『岸信介元総理の志 憲法改正』の15頁以降を参照) 協和協会HP「協和協会とは」
 また、その翌昭和54年新春には、やはり岸信介先生が会長を務める「自主憲法期成議員同盟」とそれを民間側から支える「自主憲法制定国民会議」についても、清原は事務局長に任命される。さらに、昭和56年には、これは、清原からの進言で創立したものだが、岸信介元総理を会長として、学者・評論家・教育者・技術者など専門家を中心とする「政治団体 時代を刷新する会」が設立され、清原淳平が執行役員を命ぜられている。(清原は、「自主憲法制定国民会議」については現在“会長”。「時代を刷新する会」については“専務理事”)
 なお、上記の「公益財団法人 協和協会」「自主憲法制定国民会議(=新しい憲法をつくる国民会議)」「政治団体 時代を刷新する会」の活動は、いずれも岸信介元総理が存命時代からの長年の活動で、内容も膨大なので、それぞれの団体のホームページ、ないしパソコンで「清原淳平」を検索していただきたい。

各団体ホームページはこちらからご覧ください
  協和協会   時代を刷新する会  新しい憲法をつくる国民会議